デリヘルからちょんの間までロマンの風俗旅

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昭和の風俗史【イヴ降臨】

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「ガラパゴス携帯」という言葉があるように、世界に名立たるニッポンの風俗も、世界のどの国とも異なる進化を遂げて来た。セックスの伴わない「ガラパゴス風俗」は、どこから生まれ、どこに向って行くのか?

ニッポンの風俗と外国の風俗、その大きな違いとは、そこにセックスがあるかないかである。

戦後のニッポン風俗は、1958年(昭和33年)に売春防止法が完全施行されて以降、〝挿入せずに射精に至らしめる〟を標榜して現在に至っている。そのため、風俗店の女のコをはじめ、スタッフ、経営陣は、様々なアイディアを形にしてきた。それが新手の喫茶店であったり、穴の開いた壁であったり、まるで入っているかのような素股だったのだ……。

1978年、それまでは表向きにはトルコ風呂とピンクサロンしかなかったニッポンの風俗界に、一筋の光が射した。その場所は、東京でも大阪でもなく京都にある1軒の喫茶店だった。そこの店主がひらめいたアイディアとは、ウエイトレスをノーパンで接客させるという、単純でしかもエポックメイキングなものだった。ノーパン喫茶誕生の瞬間である。

起源説は様々あるが、筆者が調べた中では京都の西加茂にあった『ジャニー』が日本初のノーパン喫茶と思われる。こののち、80年に同じ京都の『モンローウォーク』、そして、テレビでもセンセーショナルに報道された、大阪『あべのスキャンダル』へと続いていく。

『あべのスキャンダル』が有名になった理由は、ウエイトレスの衣装など派手な演出にある。もはやスカートとは呼べない小さなエプロンだけを身にまとった扇情的な姿で、コーヒーを運ぶというよりは、客の前で音楽に合わせて腰を振る光景は、50歳以上の読者なら記憶の片隅に残っているに違い無い。丸見えのオッパイと、チラ見えするヒップや股間をつまみに客たちは、一杯1500円もするコーヒー(当時の相場は280円程度)をチビチビ舐めるのだった。

当時の様子を「あべのスキャンダル」の元オーナー有田光昭はのちに、インタビュー記事の中でこう語っている。

「当初は1日30万円の売り上げがあればいいと思っていたが、ふたを開けてみたら、最高1日200万円売り上げた」

ちなみに『ジャニー』の衣装はというと、普通のミニスカスーツで、コーヒーは一杯500円だった。その後、ノーパン喫茶は瞬く間に全国に広がり、翌年には東京で200軒、大阪で140軒が開業している。

その裏で実は、ノーパン喫茶の登場は、〝ノーパンのウエイトレス〟というだけでなく、風俗界にとって革命的な現象を起こしていた。それまで、ピンサロやトルコ風呂にいた女性たちは、正直、若くもなければカワイくもない、悲壮感すら背負った女性が多かった。

しかし、「さわらず、さわられず、脱ぐだけ」で、OLの数倍もの給料を手にすることができる職業として風俗は、働き手である女性たちの裾野を広げ、働きやすい明るく楽しい風俗へと大きな変革をもたらす結果となったのだ。

ノーパン喫茶ブームは広がるのも早かったが、終息するのはさらに早かった。ノーパンの股間に興奮した客を個室で発射させる、ノーパン喫茶と個室マッサージを併せ持つ複合店、元祖ファッションマッサージ・歌舞伎町『USA』が誕生したのだ。そこに在籍していたのが、元祖フードル『イヴ』だった。

「イヴちゃんの登場は非常にショッキングでしたよ。それまでの風俗といったら、トルコやピンサロのおばちゃんばかりだったけど(笑)、そこにいきなり若くて細くてすごいかわいいコが天使の如く舞い降りたわけですよ。その名前が『イヴ』というのも、〝天地創造〟を思い起こさせる素敵なネーミングだよね」

 風俗紙「ナイスポ」の元編集長・山田鉄馬氏は当時をそう懐かしむ。

 83年、一躍時の人となったイヴは、テレビ朝日『トゥナイト』に出演した際、こう語っている。

「友だちから時給3000円のアルバイトがあるのでやらないかって誘われました。ただ、衣装が超ミニスカートに胸を出すくらい露出度が高いって言われたけど、それほど抵抗なかった。友だちには『夕暮れ族』の仕事をしているコもいて、それよりはマシだと思った。私も彼氏いたけど、お客さんとセックスするわけではないし、守るべきものは守っているのだから」

 イヴは、世の男性たちを楽しませただけでなく、若い女性たちに新しい価値観を与える大役を果たしていたのだった。

つづく…。

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